ブログ更新 。「地上」 - 〈B術の生態系〉Bな人のBな術 https://murrari.hatenablog.com/entry/20220116/1642297101…
posted at 10:39:10
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ブログ更新 。「地上」 - 〈B術の生態系〉Bな人のBな術 https://murrari.hatenablog.com/entry/20220116/1642297101…
posted at 10:39:10
ブログ更新「長過ぎる注1,001『忘却』」 https://murrari.hatenablog.com/entry/20220108/1641638435…
posted at 19:44:06
「相互クレーム合戦」の場としての Twitter。
posted at 07:30:49
「死」の問題に直面していない「あけましておめでとう」は全く無意味だ。
posted at 08:50:19
「正月」は不可避的に「死」と隣合わせのものだ。だからこそ、その意味で(のみ)「正月」は重要なのである。
posted at 08:45:04
己の「死」にあたって、それを「敗残」的なものとして捉えない事。そういう事を考える年回りにはなってきたのである。
posted at 08:38:42
「死」が他人事と思えるフェイズにあってこそ、「あけましておめでとう」は発せられるのである。
posted at 08:35:50
されど死ぬのはいつも他人。
posted at 08:34:03
しかしそれは全くもって仕方のない事ではある。何故ならば全ての「倫理」は「生者」限定のものだからだ。
posted at 08:31:06
その意味で「あけましておめでとう」は「生者」を「勝者」とする認識に基づいている。
posted at 08:29:31
「あけましておめでとう」=「サバイバルの成功おめでとう」
posted at 08:20:29
「あけましておめでとう」というのは、「無事に今回の元旦(それは古き日本人にとっては「(数え年の)誕生日」をも意味していた)まで生き伸びる事が出来て良かったね」という意味である。
posted at 08:19:47
「SNSで繋がっている友達」というのは、「年賀状で繋がっている友達」みたいなものである。
posted at 06:59:33
ブログ更新「0.6『約束の凝集 vol.1 石器時代最後の夜』」 https://murrari.hatenablog.com/entry/20201016/1602813738…
posted at 11:10:56
21世紀の「戦争画」表現。 https://twitter.com/i/status/1313267143232942081…
posted at 19:57:47
極めて浅い眠りの中、夢を見ていた。新海誠に出てくる様な少年になっていた。その少年は「セクハラパワハラオヤジになる準備期間としての青春だけは避けたい」と思っている奴だった。
posted at 06:10:59
清潔警察/清潔自警団。
posted at 08:12:50
「人間は物理的接近を避けるべき『不潔』な存在である」がすっかり内面化した後に「終息」の時を迎えた時、この認識もまたリセットされるのであろうか。
posted at 07:43:00
嘗ては「帰宅したらすぐに手を洗う」的な「汚染への恐怖」「不潔への恐怖」は「精神疾患」の範疇にあると見られていたりもしたが、今やそれらは「社会の常識」と化し、「汚染に恐怖しない」「不潔に恐怖しない」者の方が、「精神」の「例外」として見做されている。
posted at 07:35:16
「私は嘗てこういう本を読んでいた」で埋め尽くされているSNSは、「過去収録」の再編集番組にタレントがオンライン会議の如くに「集い」、出演者間で「盛り上がる」テレビのバラエティ番組にも似る。果たして我々の未来は「嘗ての日常がそのまま復活する」という信憑の延長線上にあるのだろうか?
posted at 06:41:11
「やる気」こそは、社会的な構造に全面的に依存する。
posted at 07:05:24
所謂「アーティスト」が、現下の「状況」に於いて、それでもひたすらな/無反省的な「やる気」を誇示する事が、果たして「正しい」事であるか「正しくない」事であるか。
posted at 07:04:16
しかし「人類」という「措定」/「思い込み」そのものが危うくなる場面に於いては、果たして「人類」のものである/ものでしかない「芸術」は、自らに対する如何なる「存在理由」を主張する事が可能だろうか。
posted at 06:36:29
所謂「芸術」と「人類」に名指されているものは、畢竟徹頭徹尾「『人類』のもの」であり、「人類」が「芸術」を語る時には、常に「人類」の視点からのみ行われるのである。
posted at 06:33:29
極めて「原理」的な話をすれば、「ウィルス」を始めとした「『人類』以外」の全ての「存在」には、畢竟「人類」のものでしかない「芸術」を理解する事は「出来ない」し、そもそも「『人類』以外」の存在にとっては、「人類」にのみ「最適化」されている「芸術」という「概念」自体が存在しない。
posted at 06:32:21
2020年に復活した「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ!」「ぜいたくは出来ない筈だ!」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」「進め一億火の玉だ」。
posted at 08:02:29
「シン・ゴジラ」の時代と大きく異なるのは、「人類の脅威」に対して「走って逃げる事が無意味」という「世界線」に入った事だろうか。
posted at 07:51:11
それはまた「人倫」のアップデートでもある。
posted at 18:37:41
「他人の中の私」のアップデート。
posted at 18:37:11
「和牛」は短期間の内に日本国民全員に行き渡る程の量が確保可能な食料資源なのだろうか。
posted at 19:07:15
「政府が責任をもって」という「枕詞」。
posted at 10:06:47
ブログ更新「0.5『アホでなにが悪いんや』」 http://murrari.hatenablog.com/entry/20200105/1578200765…
posted at 14:14:23
「再評価」より前に考えたいこと。原田裕規評「80年代の美術4─前本彰子展」|美術手帖 https://bijutsutecho.com/magazine/review/20830#.XcdLNJQeRpw.twitter…
posted at 08:26:49
全ての「求人」が「ボランティア」。
posted at 08:21:43
「自然」を「こくど(国土)」と読ませる事は、果たして今後一般的なものとなっていくのであろうか。 https://pic.twitter.com/TcU6bMux1R
posted at 08:45:00
そもそも「国民」なるものは、当該国の「国籍」を有していなければならないという点で「条件」的なものではあるのだが、最近ではそれに加えて、面積数平方メートル程のエリアで「合意/決定」された諸「条件」が多く加えられているという印象を持つ。
posted at 06:35:55
ブログ更新「序 こうして結局、かの問は……」 http://murrari.hatenablog.com/entry/20190510/1557454007…
posted at 11:25:26
「令和」的「世界的」。
posted at 21:13:10
「世界的アーティスト」の「世界」もまた同断。「世界的アーティスト」の「世界」ってのは、一体どこの「世界」やねん的な。
posted at 21:12:23
「海外」ってのは、果たしてどこの事を意味するのでしょうか。>【詳報】「令和」、海外でも反響 意味を深読みする人も:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASM411519M30UEHF00L.html… #令和
posted at 21:10:34
当然の事ながらあらゆる「知」にも「賞味期限」が存在する。或いは全ての「知」なるものは、「賞味期限」を暗に前提にして構築されるものである。例えば「永遠の知」的なものが仮構されたとして、それは「永遠」というフィクショナルな「賞味期限」の設定を「条件」とする事によって成立し得る。
posted at 19:25:16
(「世界」に於ける)「欧米中心主義」に反発する、(「日本」に於ける)「東京中心主義」の人。
posted at 04:48:19
つまらぬものを斬る場所= Twitter。
posted at 06:19:02
そもそも Twitter が、斬鉄剣の「刃こぼれ」的場所なのか。
posted at 06:18:23
「つまらぬものを斬ってしまった」という石川五エ門的ツイート。
posted at 06:16:49
「男流画家」が草100であるとすれば、当然「女流画家」も草100。
posted at 06:13:14
「女流」という謎の言葉に唯一対応し得るのは「男流」という謎の言葉。
posted at 06:11:46
最悪な形で「アート」は「人間」の「人間」自身による「慰めもの」になるかもしれない。
posted at 06:38:11
そうした「人間」に対する「人間」の「信憑」/「神話」を、他でもない「人間」のものとされる「アート」が最大限に補完するという近未来のトホホな図が、「人間」に待ち受けている。
posted at 06:35:57
「人間」である事の「尊厳」が、「責任」の所在を自らに置く事と切り離せないのであれば、しかしそれは「AI」が「責任」を負えないという我々の「信憑」に辛うじて基づいている。
posted at 06:34:58
例えばそれは「『自動運転車』が起こした事故の責任は、専ら(それを生んだ)『人間』にある」という「保護者」的な形でしか、「AI」に対して「優位」性を保てない「人間」の2018年時点での時限的なポジションと言える。
posted at 06:34:22
即ちそれは「AI」に対する「『監督』責任」や「『使用』責任」が、未だに「人間」に付与されているという牧歌的な前提に対する信憑に於いてのみ成立する「優位」性である。
posted at 06:33:56
近い将来(恐らく数年後)に、「人間」がなし得る、そして「人間」に残された最も重要な仕事は、「『AI』が引き起こしたトラブルの『責任』を(それを「生んだ」/「使用する」人間)が負う」というものになるのだろう。
posted at 06:33:45