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@kodaizine

物部世真古@kodaizine

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2018年03月10日(土)111 tweetssource

3月10日

@HimeStrike

植杉尚@HimeStrike

初詣は宇佐八幡宮で
出雲大社と同じ二礼四拍手一礼
メインの神様であるはずの応神天皇が中央に祭られていない
そもそもなんで応神天皇を祭る八幡宮のトップがこんなところにあるのか
よくよく考えると結構変わった点が多い pic.twitter.com/mLZA5HysQM

Retweeted by 物部世真古

retweeted at 23:43:26

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"地名が移る時は、元の地名の場所と関係が深い人々が移る時、と考えることが自然で、つまり大分(豊前、豊後)に勢力を有した人々が移った土地である可能性が高い。要所要所に、武神として九州に関係が深い人物(神)がいる。これは大変重要な意味をもっていると思う。"

posted at 23:41:21

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"大分には上毛町や下毛郡がある。加えて、上総(かずさ)、下総(しもうさ)のうち、しもうさは下宇佐とも書け、かずさは「かみうさ」が訛ると読めそう。また、常陸風土記には、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野、陸奥を定める前は、我姫(あずま)国と呼ばれていた、書かれているらしい。"

posted at 23:41:19

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"そこには、~讃-珍-済-興-武-哲-満-牛慈・・・、と記されている。そう、~倭の五王の名前が記されているのである。そして、さらには牛慈のところに「金刺宮の御宇服降、夜須評督と為る」、と書かれているらしい。王であったのが評督になったということで、王の位を降りたことが記されている。"

posted at 23:41:19

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"古田武彦は、魏・西晋時代時代には周王朝時代に用いられた長さに改められたとした。~これに対して安本美典らの説では「短里は東夷伝の三韓条と倭人条のみに見られ他の箇所では存在しない」として、魏朝の制度ではなく、倭韓の地に周の古い度量衡が残存した可能性を示唆している"

posted at 22:08:25

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"国学者の本居宣長は~「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から~九州熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で~あるとするものである。"

何が本居先生だ、話にもならない。

posted at 22:05:36

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読したことから(やまたいこく)の読み方が広まった。邪馬台国の所在地が九州か近畿かは、21世紀に入っても議論が続いている。"

posted at 22:05:36

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"魏志倭人伝など中国の史書に書かれた日本と朝鮮半島・中国の交流史によれば、弥生時代「鉄」の重要性が強く認識されていたことは疑う余地はない。"

posted at 18:03:03

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"鉄器の伝来は弥生時代の前期にまてでにさかのぼれるにしても、日本に鉄器が供給されるルートは一部の中国・朝鮮半島からにかぎられ、鉄を造る技術「製鉄技術」や「大型鉄器なども作れる高度な鉄器加工技術」は大陸側そして北部九州で厳しく制限されていたためであろうか。”

posted at 18:03:03

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"しかし、鉄器素材の流通・鉄器加工の技術情報を北部九州に独占隠匿されたそれ以外の地域では大型で高品質の鉄器素材はもとより、高度な加工技術そのものも獲得できなかったと考えられる。"

posted at 18:03:02

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"弥生中期後葉に北部九州ではヤリガンナや鉄鏃などの鍛造鉄器がいち早く普及し、高度な鍛冶技術を獲得し、大形鉄器の製作を行うことができるようになったようだ。"

posted at 18:03:02

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"硬い大型鉄素材を加工するには高温保持が可能な鍛冶炉技術など高度な鍛冶加工技術が必要で、 朝鮮半島・中国に近く、交流のあった北部九州周辺のみが、稚拙ではあるが、その技術が伝えられたのであろう。"

posted at 18:03:02

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"また、冷静にこの時代を振り返えると、近畿での鉄器出土数が少ないばかりだけでなく、大阪湾沿岸で数多く繰り広げられた弥生の戦さによる殺傷痕のある人骨に刺さっていた鏃は石鏃や青銅製がほとんどで、この時代にあった弥生の戦の主武器として鉄鏃が広く戦に使われたとも言い難い。"

posted at 18:03:01

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"次の古墳時代には~大規模国土開拓や古墳工事などには大型鉄器の農耕具・工具が必須不可欠であり、~次の時代に通じる大型の鉄器・農耕具など厚さのある立体的な高温鍛冶加工を可能とする大々的な鉄器加工工房のイメージからは遠く離れている。ギャップが大きすぎる。"

posted at 18:03:01

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

" この時代に西日本大級の鍛冶工房村とみられる「淡路島 五斗長垣内遺跡」
そこから出土した鍛冶炉は近畿の鉄器の時代を象徴するにはどうもぜい弱であり、出土鉄遺物も小さくて薄いものが主で時代を引っ張るような鉄器は出土していない。 "

posted at 18:03:00

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"『隋書』東夷傳の倭の条に「・・・九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順・・・」「倭は・・・九夷の居るところ。・・・その天性は柔順」とある"

posted at 17:41:36

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"春秋時代末期に「越」によって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たち(入れ墨の文化があった。)が海路、亡命して漂着した所であることが、上記脚注のように、最近の発掘調査やDNA分析技術の発達で明らかになってきた。(安曇族)"

posted at 17:41:35

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"『宋書』の楽志に、「白紵舞歌」というものがある。~この「(白)紵」というのは「呉」(春秋時代)に産する織物であったことに加えて、最近、遺伝子分析技術の発達(DNA分析など、一種の分子単位次元の形質人類学)によって、筑紫地方~と、呉人は極めて関係が深いということが明らかになってきた"

posted at 17:41:34

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

その「倭奴」(ウェノム)はについて、福岡県には有力な物証がある。また、九夷の「夷(イ)」は「倭=ウィ(イ)」に似てる。

漢倭奴国王印とは - コトバンク kotobank.jp/word/%E6%BC%A2

"福岡市東区の志賀島から出土した金印。天明4年(1784)に発見。印文は「漢委奴国王」の5字が刻まれている。"

posted at 17:31:47

3月10日

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物部世真古@kodaizine

『論語』の「九夷」
"孔子の論語にも倭ではないかともいわれる「九夷」について記載がある。"
"高麗、李氏朝鮮時代の書物において、日本は「倭」「倭奴」などと綴られている。"

posted at 17:31:46

3月10日

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物部世真古@kodaizine

『論衡』における倭人
"後漢代の1世紀ころに成立した王充著『論衡』には「倭人」の名がみえる。~このように倭人が周王へ暢草(薬草)を献上したという記述があり、早ければ武王紀元前11世紀末頃、記述のある成王とすれば紀元前10世紀頃の出来事である可能性がある。"

posted at 17:31:46

3月10日

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物部世真古@kodaizine

"しかし、沖ノ島から出土した土器のほとんどが北部九州製で、一部が山口県の土器であることが明らかになっています。したがって、沖ノ島は大和朝廷の祭祀遺跡ではなく、~九州~(倭国)の祭祀遺跡と考えざるを得ないのです。"

posted at 16:36:50

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"古墳の棺の中からは、弥生時代の九州の伝統を受け継いだような鏡や剣や玉類が出てきます。このようなことをどう考えたらいいのか、邪馬台国近畿説では説明できません。"

posted at 16:20:24

3月10日

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物部世真古@kodaizine

"近畿地方にはある時期、激変とも言える変化があります。近畿地方周辺を代表する青銅器である銅鐸が地上から消え去り、代わりにそれまでなかった鏡が大量に普及します。集団墓しかなかったのに、突然、個人墓である巨大な古墳が出現します。"

posted at 16:20:23

3月10日

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物部世真古@kodaizine

"本州を細長い島と認識するには、竜飛岬の向こうの津軽海峡を知らなければなりません」。「倭国が蝦夷を遣唐使船に乗せて同行させるのは7世紀になってからです」。奈良盆地を表現する為には、あのような言い方とは別の言い方が必要だと思います。"

posted at 16:20:23

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"この表現は、半島から舟に乗って、対馬、壱岐を経由して、全面に見える九州嶋を表現している以外の解釈は困難です。本当に、奈良盆地の纏向周辺を表現するのに「倭人、倭国は半島の東南の大海の山島に依りて国邑を為す」と言うでしょうか。"

posted at 16:20:23

3月10日

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物部世真古@kodaizine

"邪馬台国があったとなれば、観光資源になるため可能性のある地域は声を上げる。特に近畿は京大や研究所の声が大きいと感じます。箸墓にしても纒向にしても、強大な権力の象徴ではあると思いますが、魏志倭人伝の記述と合わない。もう少し先の時代のような気がします。"

posted at 16:15:58

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"山島為と冒頭にあり、倭国は島と認識している。。。近畿大和であれば島と認識するということは青森までを認識しないと(本州全部をわからないと島とは認識できない)女王国以北其戸数道里(里とはっきり書いてある・・"

posted at 16:15:57

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"倭国伝(九州・四国・中国地方・近畿大和・場合によっては東海も)ではなく倭人(九州から見て四国・中国地方・・・渡海東皆倭種)伝である、陳寿は当時の倭国の状況を十分理解していたと思われる。"

posted at 16:15:57

3月10日

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物部世真古@kodaizine

"有力な遺跡~は多数発見されているものの、決定的な証拠はみつかっていない。(新聞などのメディアをみていると、歴史学〈大学〉のパワー関係もあり畿内説に傾きつつあるような気配もあり、、、。また~自治体側も観光資源になりえる発掘成果に期待を寄せ、わが町こそ”邪馬台国”だと主張する。)"

posted at 16:15:57

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"津軽海峡が現われる正史は、元の脱脱(トクト)の著わした『宋史』からで、紀元前から島と認識されていたのは九州や四国だけである。漢代から隋代までの正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されているので、倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない。"

posted at 16:10:09

3月10日

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物部世真古@kodaizine

"まず、『古事記』。ここでは津軽海峡は全く出現しません。『古事記』の世界は、この海峡には“いまだ到着していない”のです。次に『日本書紀』。ここでも、七世紀前半までは全く無し。西方の記事が多いのとは、きわだった対照をなしています。初めて出現するのは、『斉明紀』です。"

posted at 16:01:26

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"「日本は古の倭奴なり。京師を去る万四千里。直(ただ)に新羅の東南。海中の島*に在りて居す。其の王、姓は阿毎(あまい)氏。自ら言う。『初めの主、天の御中主(みなかぬし)と号す。彦瀲(ひこなぎさ)に至る、凡(おおよ)そ三十二世。皆、尊を以て号と為し、筑紫城に居す。"

posted at 16:01:26

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"しかし、率直に言って、倭人伝の中には“陳寿(ちんじゅ)が津軽海峡の存在を知っていた”ことをしめす証跡、それは全くありません。ですから、この一点だけで、従来の考古学・文献学等を動員した、あらゆる近畿説の論議は、すべて一挙に瓦解(がかい)するほかないのです。"

posted at 16:01:25

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"ところが、近畿説の場合、三世紀の中国人が本州を「島」と認識できるためには、何が必要でしょう。少なくとも本州が、一番遠い彼方ですら、大陸と“切れている”という認識が成立していなければなりません。~これが問題のキイ・ポイントです。"

posted at 16:01:25

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"奈良盆地自身が海抜百メートルぐらいありますので、山の麓(ふもと)に立っている高さは、五十メートル位であるので、私が歩いても頂上までさっと十分ぐらいで上がって行けた。非常に低い丘である。それが山の中でも目立つ山とは言えない。これは明らかにおかしいと、おそまきながら気が付いてきた。"

posted at 15:51:51

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"畝傍山、耳成山は立派ですね。香久山は目立たない平凡な山ですね。これは写真に撮れば良く分かる。上の二つは良く撮れる。香久山は写真に撮れば逆にどこかと探すぐらい分からない。よほど現地の人に確認しないと分からない。この写真には立派に写っているが、素人が撮ればそんなにうまく写らない。"

posted at 15:51:50

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"どんな解釈をしても、大和盆地にいろいろある岳(やま)の中で天の香具山が一番目立っているという意味には違いない。しかしこれは知らぬが仏で、奈良県の飛鳥に行ったことのない人は騙されますが、実際に行ってみたら一番目立たない山である。"

posted at 15:51:49

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"九州王朝説は根拠に示すとおり多くの証拠があるにも拘らず日本古代史学界からは黙殺されている。それは以下のような理由による。通説とあまりにかけ離れており日本古代史学界の多くの研究成果を否定することになる。"

posted at 14:59:29

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"住吉神社、八幡宮など九州を始原とする神社が日本全国に多く分布するのは、九州倭国の信仰をヤマト王権が引き継ぎ広まったものである。"

posted at 14:59:28

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"古代の河内地域には、巨大な河内湖(草香江)があり雄大な景色が広がって~瀬戸内海から大和への通り道であり古代人は頻繁にこれを通ったと考えられ、これを観たり通った古代人が歌を詠まないはずが無いが、万葉集にはこの雄大な河内湖そのものを詠んだ歌や船で河内湖を行く歌が存在しない。"

posted at 14:59:28

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"大宰府政庁の「蔵司」「老司」、北九州市の「門司」、山口県の「下関」、大分県の「佐賀関」等々は、九州倭国の役所と考えられる。"

"大分県の「国東半島」の国東とは、九州倭国の東という意味である。"

posted at 14:59:28

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"玄界灘の真っ只中、九州本土から約60kmに浮かぶ沖ノ島は、宗像大社の神領であり、日本で最も多くの国宝が出土しており、「海の正倉院」と称されている[30]。沖ノ島から出土した土器のほとんどは北部九州製であり、一部が山口県の土器である。"

posted at 14:59:27

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"和開同珎等の銅銭でさえ周防国(山口県山口市鋳銭司・下関市長府安養寺町)等の西日本でその多くが鋳造されていた。"

"九州には古代から~あったが、畿内地方には、外洋航海ができるような大型商船が着岸できる貿易港は、平清盛が12世紀に大輪田泊(神戸港)を整備するまで無かった。"

posted at 14:59:27

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"『続日本紀』769年の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也(この府は人の行き来や交易が盛んで、日本一の都会である)」と報告しているように北部九州では8世紀既に経済活動が活発であった。"

posted at 14:59:27

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"~太宰府本体も古くなる可能性がある。鴻臚館の便所からはトイレットペーパー代わりに使われた西暦430年の木片も見つかっている。学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、昭和43年に太宰府遺跡で竹内理三教授等が発見した焼土層は1600年ほど前の物である。"

posted at 14:59:26

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"現在の太宰府の年代測定は、年輪年代測定や放射性炭素年代測定等によるものではなく科学的根拠が無い。水城の築城は、理科学的測定によれば下部は西暦240年、中部は西暦430年、上部は西暦660年で、水城の排水口の木部も西暦430年であったので『日本書紀』の記述等よりも古くなり、~"

posted at 14:59:26

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"太宰府政庁跡は現在、都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり本来は都督府と呼ばれていた。都督府とは中国の官職である都督に任ぜられた者が居る場所である。7世紀までは全国各地に評督が置かれていたことが判明しているが、評督とは都督の支配管理下にいる者である。"

posted at 14:44:23

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"「太宰」の本来の意味は宰相(総理大臣)であり、「太宰府」とは「政治を行う所」つまり「首都」という意味に取れる。宋に朝貢していた倭王武は皇帝の最高位の臣(太宰)を自称していた。"

posted at 14:44:23

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"古事記が4か月で書かれたのに比べて、日本紀は企画から完成まで数十年と異常に時間が掛かっている。また、九州と近畿・東海には、同じ地名や同じ名前の神社等が多数存在する。数十年掛けて日本紀に合うように近畿・東海へ遺跡・遺物・伝承・住民等を移植したと推測される"

posted at 14:44:23

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"持統天皇5年(691年)8月13日条に、「十八氏に詔して其の祖等の墓記を上進らしむ」とある(「墓記」とは氏族の発祥・由来・顕彰事項を記した氏族の史書)。日本紀の記述に合わせて各墓記を改竄したと考えられる。"

posted at 14:44:22

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"『続日本紀』和銅元年正月(708年) の詔に「亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。(禁書を隠し持って山野に逃亡している者は、100日以内に自首しなければ恩赦を与えない。)」とありこの時期にはヤマト王権の「正規のイデオロギー(日本紀)」と相反する書物が残っていたことを示している。"

posted at 14:44:22

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"世界的に見ても巨大な墳墓群を築造した国家的大事業であるのだから、築造の年月や動員した人民等についての多くの記述がなければならない~記紀にはそれが全く無い。従って畿内の巨大古墳群は、歴代天皇の墓ではない。また~巨大古墳があるということは記紀は畿内地方の記録ではないということである"

posted at 14:44:21

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"現在、天武期より前の天皇陵とされている古墳は全て江戸時代に国学者らが参考地にある古墳の中から『記紀』の記事や伝承・規模を基に適当に治定したもので、それが本当の天皇の墓である確証は何も無い。記紀に歴代天皇が巨大古墳を築造したとの記述が無い。"

posted at 14:44:21

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"壬申の乱の際に天武が神武の墓陵に参拝したように7世紀末頃まで数百年に亘り歴代天皇の墓の所在は明確であったと考えられるが、記紀が書かれた8世紀以降突然不明になっている。九州にあった歴代天皇の墓を畿内にあったと、記紀の天皇陵の場所が改竄された為と考えられる。"

posted at 14:44:21

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"歴代天皇や功臣の墓には墓守が付けられたので、墓守が存続した皇権の強い時代(~平安時代)までに天皇の墓が誰の墓だったか分からなくなることは無い。延喜式でも天皇の墓には墓守りである陵戸が付けられると規定されている。"

posted at 14:44:21

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"記紀において九州にあった歴代天皇の墓が畿内にあったと改竄されたと考えられる。現在、天武期(7世紀末)以降の古代天皇陵は所在が比較的に明確に分かっているのにそれ以前の天皇陵の所在が全く不明である。"

posted at 14:44:20

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"糸島地方、春日市などの古墳や沖ノ島などの北九州一帯からは多数の三種の神器が揃って出土しているが、近畿地方の古墳からは出土していない。~弥生時代においては武器出土数は、東に進めば進むほど減少していくので、九州勢の東征は、弥生時代ではない。"

posted at 14:44:20

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"上町台は、7世紀頃まで大阪湾と河内湖に挟まれた砂洲であり多くの住民の住めるような土地もなく、ヤマト王権の本拠地である大和から遠く離れた僻地であったので、応神天皇が難波大隅宮、仁徳天皇が難波高津宮、欽明天皇が難波祝津宮、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮等の宮を置けるような場所ではない。"

posted at 14:44:20

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"仁徳紀に記された「難波の堀江」は、人工的に建設されたものとされるが、上町台地の北端、現在の大阪城の北の水路は自然に形成されたもので、弥生時代には存在していたことが確認されており、人工的に掘削されたものではない。"

posted at 14:44:19

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"上町台地で難波津らしき痕跡は見つかってない。上町台地北端・道修町高麗橋周辺は平安時代に渡辺津と呼ばれていが、この場所からは奈良時代以前の遺物は出土してない。"

posted at 14:44:19

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"龍田山(立田山)は熊本県熊本市に存在する山であり、大坂山は福岡県のみやこ町と香春町にまたがる山である。畿内地方の「大坂」という地名に関する最古の記録は、1496年に蓮如上人によって書かれた御文の中に見られる「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」の記載である。"

posted at 14:44:19

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"『日本書紀』天武8年(679年)11月条に「初めて関を竜田山、大坂山に置く、よりて難波に羅城を築く」とある。上町台地の難波宮に羅城(城壁)の痕跡は見つかっておらず、畿内地方には龍田山や大坂山との名称の山も存在しない。"

posted at 14:44:18

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"九州倭国の都だったとされる太宰府政庁跡は現在、都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり都督府跡のことで都督-評督制の名残と考えられる。"

posted at 14:44:18

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"『日本書紀』では「大化の改新」時に「郡」が成立したと記すが、出土した文書(木簡類)により「郡」と言う用語が実際に用いられるのは、大宝律令が制定された701年以降であり、700年以前は「評」を使っていたことが確認されている。"

posted at 14:44:17

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」によれば、俀国王の多利思北孤(日出處天子)の国は山島にあり、俀国には阿蘇山があると明記されているので、俀国は九州のことである。"

posted at 14:44:17

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"羽田(波多)、肥前基肄郡基肄(紀)、肥前佐嘉郡巨勢(巨勢)、肥前三根郡葛木(葛城)、曾我(蘇我)、平群(平群)。また、高良山近くの武雄は武内宿禰の父の名である。"

posted at 14:44:17

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"中世末期に成立した高良大社に伝わる高良記によると高良大神の孫の子孫に「皇」(すめろぎ)や「連」(つら)などと言った称号を持った者がいる。高良大社の祭神高良玉垂命は、武内宿禰と言われている。武内宿禰の子供達の名前の地名がこの一帯に散らばっている。"

posted at 14:44:16

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"福岡県古賀市の船原古墳(6世紀末-7世紀初頭)で新羅から倭王に贈られたものと見られる最高級の金銅製装飾馬具が発見されている。"

"福岡県久留米市の~高良大社は、~三種の神器、「干珠・満珠」の宝珠や七支刀を所蔵している。高良大社の神職は丹波・物部・安曇部・草壁・百済の五姓である。"

posted at 14:44:16

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"古代わが国では「曲水の宴」は宮廷行事であり主催者は天皇であった。畿内地方で「曲水の宴」が開催されはたのは8世紀以降であるが、福岡県久留米市には、8世紀以前の「曲水の宴」の遺構があり、九州に王権があったことを窺わせる。"

posted at 14:44:16

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない。政治、祭事、軍事が未分化の時代、必然的に王は司令部のある北部九州に常駐することとなる。つまり~そこに倭の首都があったことになる。"

posted at 14:44:15

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"とにかく言いたいことは、藤原宮に大極殿はなかった。同じ時期に太宰府に、内裏、内裏岡、紫宸殿、朱雀門があった。どちらが中心であったか、ハッキリしている。とにかく古代史というものは先入観なしに見なければならない。"

posted at 14:14:27

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"国家の重要な施設である迎賓館は都に近接した場所に置くのが常識。中国の史書・隋(ずい)書に記す隋(581~619年)の使者・裴清らも「都の郊外で歓待された」ことが記されている。近畿和(わ)政権の迎賓館なら奈良県、あるいは大阪府のどこかになくてはならない。"

posted at 14:02:44

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"福岡市教育委会などは「大和政権が七世紀後半に設けた迎賓館施設『筑紫の館』である」と強弁しているが、Ⅽ14による年代測定では、トイレ遺構の底にあった木片が四三〇年前後の年代を指した。水城や太宰府の楼閣群と同様、五世紀中ごろには完成していたと考えられる。"

posted at 14:02:44

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

鴻臚館(こうろかん) 福岡市中央区舞鶴公園内
"九州倭(い)政権の外交施設。百済、新羅、高句麗、中国など外国からの賓客を宿泊させ、またもてなしの宴会を催した迎賓館の遺構。迎賓館は太宰府の南、小郡市にもあったらしい。"

posted at 14:02:44

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"~などとごまかして宣伝しているのは、古代史学界を牛耳り、反対意見の持ち主を排除して保身をはかる「守旧派」に媚びついた主張である。木簡などのデータを隠し続けるなど主権者である市民を愚弄(ぐろう)し続けている。"

posted at 14:02:43

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"都府楼遺跡には、現在でも天皇の居所を示す「内裏(だいり)」や「紫宸殿(ししんでん)」、あるいは「府庁」小字名などが残っている。福岡県教委などがこの遺跡を「七世紀後半以降、近畿の大和政権が設けた出張所『大宰府政庁』の遺跡である」~"

posted at 14:02:43

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"太宰府は別名を「都府楼(とふろう)」という。「都府」とは、東アジアの盟主であった中国の天子の名代として、一定の地域を支配する権限をもつ「都督(ととく)」の政府機関のことであり、「楼」は建物のことである。日本列島の中でここだけにしかない名称である。"

posted at 14:02:42

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"福岡県教委などは、太宰府周辺の都城遺跡は「七世紀後半に始まる」などとしているが、太宰府政庁と同時期に建設されたという防衛施設、・水(みず)城(き)や外交施設である鴻臚館(こうろかん)などでは、いわゆる「倭(い)の五王」時代直前である四三〇年前後という測定値が相次いでいる。"

posted at 14:02:42

3月10日

@kodaizine

物部世真古@kodaizine

"遺跡の年代判定で最も信頼性が高いとして、世界中の考古学界が採用している放射性炭素(C14)による年代測定によると、九州や東北の遺跡、そして古墳の年代は、現在の考古学界が表明している年代よりはるかに古い。"

posted at 14:02:41

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