これは夢だと気付けかけている時のようだ。
posted at 22:31:39
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Stats | Twitter歴 4,460日(2011/09/19より) |
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これは夢だと気付けかけている時のようだ。
posted at 22:31:39
あらゆるものから遠退きを感じる。
posted at 22:29:35
入り口が少し低くなっているのだが、視線はそこから会衆席の上を掠めて祭壇までを一息に浅い角度で結び、その地に足ついた神々しさはたとえば遠浅の浜辺で満ち潮の向こうに覗く岩のよう。
posted at 20:46:15
今日偶々立ち寄った関口教会聖マリア大聖堂(丹下健三)が素晴らしかった。十架型の頂部から裾に向かって優美に捻られつつ広がるコンクリート壁は、見る者の位置に応じて左右の採光窓と正面の祭壇の上の十字架を上端から徐々に隠していく。果てしない遠さと包み込むような近さとが共存している。
posted at 20:30:31
世界堂にパン売っていないかな
posted at 11:42:26
群島〜
posted at 20:36:24
メイヤスー祭り(行かなかったけれど)の翌日だっただけに、「来たるべき神」と「他所から訪れ帰っていく神」との対比はSR的にどうなのだろうとか思う。
posted at 20:27:10
そして金籐みなみさんのかづきものの、一方でその外側、穴から突き出て互いに分断された四肢、他方内側ではそれらの(時には二人分の)四肢の異形の纏め上げはまさにそれを目指しているはずだ。
posted at 20:21:50
もし仮にアートというものに可能性があるとすれば、それは無根拠に架構され自明視されたorganization の輪郭線、内/外の切断線を、一方ではむしろより微細に縦横に刻みつけ、他方でその残滓の幾ばくかを再び、別様に、半ば無責任に纏め上げることにこそあるだろう。
posted at 20:21:02
厳密かわからないが、ベンヤミンの説く戦争の「効能」を思い出してもいいだろうか。
「従来の所有関係を保存したまま、最大規模の大衆運動にひとつの目標を与えることを可能にする。」(『複製技術時代の芸術作品』)
組織を保存したままの摂取とは、これが内向きになっただけなのでは。
posted at 20:19:24
だからこそ外から入ってきてそこに根を下ろす移民に関しては、治安がどうとか御託を並べながらその実日本の目には移民たちの存在自体が不正と映るのであり、はっきり言って「おもてなし」と排外思想とはいずれも根を同じくしている。
posted at 20:10:57
外国人労働者に対する処遇にしても、目下の課題に処方するサプリメントのようであり、年数縛りで新陳代謝への配慮も忘れない。というか有効成分ばかりに目を向けて身体の全面的な代謝を認めようとしないのが日本という身体だ。
posted at 20:09:06
1/16、女子美ガレリアニケで金籐みなみ・関口光太郎展関連カンファレンス「アートと移民とそのからだ」を拝聴。
オリンピックや医療ツアー等、日本の入国者に対する態度には「お客様は神様」という言葉を思い出す。ある日外からやってきて、金を落とし、後は速やかに立ち去ってくれる客人。
posted at 20:01:38
体液全般を信じていない。
posted at 18:30:42
私、身体の中心が心臓だという発想が殆ど皆無だぞ(むしろ肺か)。
posted at 18:29:56
@masao02 嵩をもったストロークで角を塗り鈍そうとするかのようですね。
木村さんの展示も、それぞれの絵が個別に大気に開かれながらもそれらが纏まりひとつの展示空間を成していて、とても良かったです。
posted at 18:04:20
台所の換気扇の庇だかに屋根から水が落ちているようでひたすらぼろんぼろんうるさい。
posted at 08:06:08
https://pic.twitter.com/Lz64FnMtLJ
posted at 00:00:06
ひとまず、終わり
posted at 23:59:22
彼女の絵は、全くもって白壁(部屋の四辺だ)とともにある。部屋に踏み入れた時の、床面のもきゅもきゅとした質感、沁み入るような壁面の白。作品と題名との間、題名の日英表示の間での宙吊り。それら全てがしかし画面の上に固着してあるように(それは設営=インスタレーションとは異なる)。
posted at 23:57:55
それは幾ばくかの大気を挟んでの、距離を介した接触(ひょっとしたら「極薄」の)であり、そのために身を乗り出す手摺が彼女の窓だ。
時に辺と平行に、帯状に切り取られる画布は、その背後の骨組みに残る、画布を切るナイフの巻き添えとなった傷口とともに、彼此を混乱させさえする。
posted at 23:53:26
あおいうにさんが四つ角と戦っているとすれば、木村有沙さんの注意はむしろ四辺に逸れていく。
画布の縁に這うように差される色彩(それはしばしばカーテンのような形として現れる)に強調される四辺が組み上げるのは観者を空間へと導く窓の形象だが、その窓は画面の彼此を分かつ窓ガラスではない。
posted at 23:46:19
部屋の話に戻れば、今回のうなぎの寝床な部屋はあおいうにさんの皮膚感には馴染ませづらいように思われた。
しかし他方、写真立ての群れや、複数の風景画(個人的にも好きなのだが)で並走する水平線には、観者を取り巻くもの、という方向性も窺え興味深く思った。
posted at 23:38:59
扉に貼られた表札(「あおいうにの部屋」)の角を惚かすような色彩、角をドレープの内に包み込むような布地は、その効力を塩梅しているように見える。
posted at 23:22:37
その意味で角は欠くことのできないものだが、しかしあまりに無垢な角はその遠心と転移をカギ括弧の内に押し留め、一枚のタブローとして囲ってしまう。無限の角に包囲された果てが円という自閉的求心的形態だ。
posted at 23:17:46
ところでこの「角」の困難は個々の作品単位でも窺える。
四角は転移を誘う。絵と絵が重なり混じり合う。外からは世界であり内からは視界であり、すなわちそれは皮膚であり(FPSも視界と画面との転移だ)。
小品を収めて窓際にずらり群がる写真立ては互いに侵食しあいつつ私を覆い尽くすだろう。
posted at 23:14:22
(余談だが、この展示を見ながら、この日一緒に見た黒田記念館特別室の《読書》で矢張り窮屈そうに角に陣取る女性の姿を思い出していた。黒田もまた角を問うた画家の一人かもしれない。)
https://twitter.com/10aka_/status/688571062209007616?s=09…
posted at 23:08:02
昨年新宿眼科画廊での木村有沙さんとの二人展「透けたユートピア」では薄暗がりが部屋の角を鈍らせていた。今回も部屋の隅を塞ぐように斜めに絵を立て掛け、布を巡らせ、(時には自らそこにうずくまり、)角を拡散させ、部屋中央の丸い籠で観者の動線を周回化させるのだが、尚も幾らかの苦しさは残る。
posted at 23:04:20
従って客体とは「斜に眺められるもの」であり、「パースが効き得るもの」である。そして部屋の角に角近くの壁面に掛けられ、斜に眺められる絵画はその歪形ゆえに、自らの客体たることを告白してしまう。ここでFPSは無効化されてしまうのだ。
posted at 23:00:59
視界というものは主体の側に属するものであって、視界の枠それ自体は主体の移動に従って変形されることはありえない。翻って、主体から切り離され観察される対象としての客体は、主体の移動に応じて刻々とその輪郭を歪め更新していくだろう。これがパースというものだ。
posted at 23:00:27
私は以前あおいうにさんの描く画面をFPS(一人称視点)ゲームのそれになぞらえたが、彼女の作品は画面と観者の視界との重なり合いと反発との分裂に特徴づけられる。そして画面と視界とが重なり合う為には、画面の客体化を防ぐ必要がある。
https://twitter.com/10aka_/status/630346448157040640?s=09…
posted at 22:58:52
芸大油画4年展「ハイライト」。
あおいうにさんは、誰かの暮らす部屋を思わせるインスタレーション。気になったのが、部屋の「角(かど)」を手懐けかねているように見えた点。元々奥長の空間故、部屋の角辺りがどこか間延びしてしまうのだが、彼女の作品の特性がそれに拍車をかけている。(→
posted at 22:53:26
ていうか男との密着度が増したんだな。口もとの哀愁を削り、表情を読み難くしている(見ようによっては忍び笑いしているようにさえ見える)。
posted at 13:18:06
(何気にこの絵結構すきなんですよ)
posted at 13:13:46
《昔語り》、習作では描かれている画面右手の舞妓の口もとが、完成品(焼失)では男の肩に置かれた右手の向こうに埋もれているように見える。
posted at 13:12:37
《読書》も、窮屈そうに肩をいからせ傾いだ姿勢の女性が、奥の鎧戸とそれに直交する開いたガラス戸?とから成る隅に挟まる構図だしな。この装置と人間という構図が構想画の特徴というものなのかしらん。
posted at 13:07:04
黒田記念館特別室。《舞妓》、手前の障子戸の垂直と奥の手摺の水平とから成る直交系が、そのそれぞれに腕を沿わせる舞妓の、袂を膝上に残して右腕へと伸びる振袖、肩から画面右手の女性へ向き合う頭へと伸びる稜線といった斜めの線によって柔らかに接続され、互いに旋回しあうかのような巧みな構図だ。
posted at 12:58:28
予告篇の歴史
posted at 22:54:15
紅をひく。
https://youtu.be/RTfESNVoGdI
posted at 22:13:35
このところしばらくエディ・レッドメインの大きな口と焦点のぼけた目が気になっている。
https://youtu.be/6NEtaNmTgwE
posted at 22:12:49
音です。
https://soundcloud.com/10aka/sounds-from-morning-3…
posted at 11:13:40
未完成の作品が見られたのが何気に良かった。鏡面加工前のもったりとした画面。
posted at 23:23:39
Alu-Dibond
posted at 23:21:05
たかしぽむの絵の中の世界、結構重力働いているように見えませんか。
posted at 23:16:42
森美ぽむぽむたかし展、画面の「間のもたなさ」を強く感じた。諸モチーフの併存を受け止めるために画面はどうしても(トランクに詰まった緩衝材のように)細かく砕かれざるをえず、しかもその砕けがモチーフに干渉しないよう、砕きは別の次元で実現されなければならない感じ。目指していない壁紙。
posted at 23:11:39
反射作品の方はむしろ同じくWako~に出品されていた竹岡雄二に近いのかも、
posted at 22:50:31
リヒターの濃灰に鏡面仕上のgrey painting、映り込みという点で中山いくみさんの「反射作品」を思い出すが、清水穣氏のリヒター論はそれを鑑賞者不在においてのみ成立する単一ゼロ平面として捉えていて、美術制度的観点等から映り込みを積極的に取込む中山さんとはまた違うのね。
posted at 22:46:37
Wako Works of Art でゲルハルト・リヒターの Strip シリーズを見たが、強烈な体験だった。透明アクリル樹脂(Perspex)に封じられた微細なストライプが全視界を奪い、画面との距離が全く掴めず危うく頭から突っ込みそうになる。
posted at 22:29:56
今日はうっかり目的のギャラリーの一階下のオシャレショップ入店してしまい、ドアを跨いだまま四半分間程の呆然の後階段上ったら水曜閉廊で、そこを後にして数分後たまたま場所知らないままにずっと行きたいと思っていたギャラリーの前通りかかって、ラッキーと扉を押せども引けどもまた休廊だた
posted at 17:08:10
WYSIWYG
posted at 21:30:30
無数のカットのモンタージュから成る映画は、被写体への同一化(写真)に加え更にカメラという視点にも同一化し、その構成を読み解くことが求められるメディアだが、後者の同一化の単数性が破綻するまでに加速した編集形式こそが予告篇である以上、それが東さん的キャラ性を帯びてもおかしくない、かも
posted at 21:23:59
予告篇の映像にちらつく寸断されたカットの数々、キャラクターっぽい気がする。
posted at 21:05:02
私達が不覚にも憧れてしまうのは、「映画のような」人生と言うよりもむしろその予告篇のようなそれだろう。
posted at 20:56:37
およそ抗しがたいのだがしかし断固として抗さねばならない気がする。
posted at 20:54:36
予告篇の誘惑、、前後との整合性への配慮から解放され強烈に明滅するカットの数々、しかし尚もその背後に確かに何らかの本流と言うか空気を予感させるその構成は、一瞬の中に永遠を畳み込み、あたかも私の、この生をもまるごと呑み込んで仕舞うかのようであり、
posted at 20:52:32
落下と人間に興味がある
posted at 00:08:57